タイトル

石見銀山遺跡の保全・活用への民間参画

はじめに

 石見銀山遺跡では、2007年の世界遺産登録に先立ち、2005年から官民協働による「石見銀山協働会議」を立ち上げ、世界遺産登録後の保全・活用に向けて議論し、準備してきた。その後、会議の民間参加者の一部が中心となって「特定非営利法人石見銀山協働会議」(以下、NPO)を設立し、民間が実施する保全・活用事業の支援等を実施している。

 官民協働による会議の立ち上げは行政が主導したものであるが、その投げかけに民間側も応えて、2005年の立ち上げ当初は約200人が会議に参加した。この会議によって登録後の保全・活用の指針となる「石見銀山行動計画」が策定された(2006年3月)。当時、日本の世界遺産(候補)において、民間が加わって東独後の地域のあり方を議論し、計画としてまとめたことは先進的な取り組みであった。この計画では、民間が持続的に保全・活用に加わる方策として、主体となる団体の設立や基金の必要性にも言及し、それが後の基金の設置やNPOの設立につながっている。

 本報告では、民間参画の経緯と成果、現状の課題などを紹介したい。

1.石見銀山遺跡の社会的環境

(1)立地

 石見銀山遺跡は、西日本の島根県大田市にある。大田市は東西に細長い島根県のほぼ中央に位置し、面積は約436平方kmである。北は日本海に面し、平地に乏しい地形で、南東には標高1126mの三瓶山、南西には標高808mの大江高山を主峰とする山群がある。2017年5月時点の人口は約34,000人の小規模な都市である。

 周辺人口も少なく、東に接する出雲市が約145,000人、西の江津市が約26,000人である。大都市圏からの時間距離が遠いことも当地の特徴で、特に、航空機を含む公共交通機関を使って東京から訪問する場合、本州では最も所要時間を要する地域である。最も近い政令市の広島市からも自家用車で約2時間を要する。

(2)産業

 大田市の産業は、就業者の割合でみると第3次産業が62%、第2次産業が27%、第1次産業が11%である(2010年統計)。地域経済の中核といえる産業がなく、経済規模は小さい地域である。

 観光業について、石見銀山遺跡は大田市の主要な観光地である。その観光客数は世界遺産登録翌年の2008年の約813,000人をピークとして、その後は減少傾向にあるものの、2015年に約375,000人が訪れている。しかし、宿泊を伴わない通過型の観光が多く、飲食店や商店、旅館業などの観光事業者があまり多くないために、観光収入にはつながりにくい構造となっている。

(3)住民が暮らす世界遺産

 石見銀山遺跡の世界遺産としての登録範囲は5.29平方kmあり、鉱山部分のみならず、鉱山町(大田市大森町)、港湾と港湾町(大田市温泉津町、同仁摩町)、鉱山と港湾をつなぐ街道、城跡などで構成されている。遺跡地内に住民が生活する住居があり、大森町(人口約400人)、温泉津町(人口約550人)の町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区でもある。

 広い範囲に道を含む様々な構成要素が存在する石見銀山遺跡は、遺跡そのものの保全・活用に加えて住民の生活環境を守ることも求められる。これを経済規模が小さな地域行政が担うことは容易ではないと予想される。石見銀山遺跡における民間参画、官民協働は、持続的な保全と継承のために市民の参画が必要であると考えられたことから始まったものである。

2.民間主導による保全、研究 〜協働に至る歴史的背景〜

(1)価値の指摘

 石見銀山において官民協働の取り組みが始まった背景として、民間主導によって保全活動や研究を行ってきた歴史的な伏線を見逃すことができない。

 石見銀山を研究してその歴史的意義を指摘したのは、山根俊久氏(1896〜1979年)であった。旧制大田中学校(現島根県立大田高校)で教員を務めていた山根氏は、1923年に操業を休山したばかりの石見銀山(当時の名称は大森鉱山)について単独で調査を行い、1932年に著書「石見銀山に関する研究」を私費出版した。この研究は、石見銀山の歴史的意義を初めて指摘したもので、その後の保全活用の道を切り開く役割を果たした。この時代に、鉱山に歴史的な意義があることを見出し、現地調査に基づいて学術的に評価したことは驚くべきことで、山根氏の研究は日本における鉱山史研究の先駆とされている。山根氏による価値の指摘は、民間主導による保全活動の契機であり、世界遺産に至るその後の歩みの第一歩と言える。

(2)文化財保存会

 石見銀山の鉱山町として成立した大森町では、1957年に住民によって「大森町文化財保存会」が設立され、現在も活動を続けている。この会は、1956年に邇摩郡大森町が大田市に編入されたことを契機に、町の歴史が忘れられることを懸念した住民が、町内の文化財を守り、後世に伝える目的で設立したものである。保存会の設立によって民間による遺跡保全が本格的に始まり、これを追従するように行政も動いて、1969年に石見銀山遺跡が国の史跡に指定された。鉱山遺跡が史跡指定されたのは日本国内で初めての事例である。同年、大田市立大森小学校では全児童が加わる「石見銀山遺跡愛護少年団」が結成され、遺跡の清掃などの活動に加えて、外部からの来訪者に遺跡を紹介するなど活用面の活動を行い、現在も継続している。さらに、1976年には住民が市から旧邇摩郡役所の建物の払い下げを受け、住民有志が運営する「石見銀山資料館」を設立した。この資料館は現在、石見銀山研究の拠点的役割を果たしている。以上のように、大森町では住民による遺跡の保存と活用に60年以上の歴史がある。2005年の段階で世界遺産登録後に備えて官民協働による会議が始まったことは、当然の流れだったという見方もできるだろう。

(3)町の持続

 大森町で、民間が自主的に遺跡の保全と活用を行ってきたことは、この町の特異性とも言える。

 大森町は大田市の市街地からは約10km離れた山間部の谷筋にある。鉱山町として成立した町は、多くの場合、鉱山の操業が終わるとともに急速に衰退し、特に山間部では町そのものが消滅する。大森町で今も約400人の人が暮らしていることは、例外的な状況と言える。この町が持続したことは、江戸時代(1603〜1868年)にここに幕府(中央政府)の出先機関である「代官所」が置かれ、現大田市域を中心に、幕府が直接支配していたことが影響したと思われる。江戸時代を通じて、大森町は当地一帯の行政の中心地であり、経済的にも周辺地域に対して影響力を持っていた。明治時代以降も一時は県庁が置かれるなど、しばらくは政治経済の中心地であり続け、鉱山関連の従事者のみで成立した町ではなかったことが町が持続した大きな理由と推定している。また、山根俊久氏によって、鉱山休山(事実上の閉山)後の早い段階で歴史的価値が指摘され、住民が地域に誇りを抱いたことが自主的な保全活動へつながり、遺跡や町並みが守られてきた経緯がある。

3.行政と民間による会議がはじまる

(1)プランナーの募集

 大森町では住民主導による遺跡保全活動の実績がある。また、遺跡が生活の場と重なるという事情から、遺跡の保全と活用に加えて生活環境の保全が求められることから、行政主導による一元的な管理では足りない部分があると予想された。そこで、大田市は世界遺産登録に先立って官民協働による会議の招集を決め、市民の参加を募ることになった。その呼びかけに応えて200人以上の市民が参加し、2005年6月に協働会議がスタートした。当時、世界遺産登録が観光振興の起爆剤になると期待する市民も多く、世界遺産登録に向けた計画策定への関心が高かった状況があった。

 協働会議の開催にあたり、行政側は市民が計画立案し、市民が計画を主体的に実施することを期待した。開会にあたり、協働会議の参加者をプランナー(立案者)と呼び、計画策定後はプレーヤー(実践者)へ移行する旨が説明された。

(2)分科会に分かれての議論

 協働会議に参加したプランナーは、「保全」、「発信」、「受入」、「活用」の4つの分科会に分かれ、それぞれのテーマに向けて議論を開始した。各分科会には民間側から2名ずつの世話人が置かれ、行政側は記録・調整係として参加した。会議は世話人が司会進行しながら、民間側が主導する形で行われた。会議は概ね2週間ごとに市役所の会議室で行われ、3月の「行動計画」策定までに各分科会とも15回前後の議論を重ねた。プランナーは職業従事者が多いことから、会議は夜間に行われ、時には深夜まで議論が続いた。プランナーは職業や考え方が多様であるため、議論はしばしば混迷し、必ずしも順調とは言えない状況であった。世界遺産登録において、遺跡や住民の生活環境の保全が観光振興より優先されることに違和感を覚える人も少なからずおり、3月まで継続的に参加したプランナーは当初の3分の1程度であった。

 議論の混迷や、参加者の減少という状況もあったものの、世界遺産登録に先立って様々な立場から意見を交わしたことには大きな意義があり、その結果策定された石見銀山行動計画は、世界遺産としての石見銀山遺跡のあり方を示す指針となった。

(3)世話人と行政職員の役割

 プランナーによる分科会と並行して、世話人と行政職員による世話人会(調整会議)が12回開催された。この会は、分科会ごとの議論の内容が重複した場合の調整が主な目的である。また、分科会を進行する役割を担う世話人にとって、会を重ねるほどに議論が混迷する分科会の方向性について考えを整理する機会でもあった。

 議論の落とし所をある程度見通した上で分科会に参加している行政職員は、分科会の場で意見を集約、誘導したくなる気持ちもあったのではないかと想像するが、記録・調整係に徹した。世話人会の場では行政の立場で発言することもあり、世話人は民間プランナーと行政双方の考えを知ることで、次回以降の分科会に備えることができた。議論の場はあくまで分科会であるが、それを整理し、方向性を定める上では世話人会が果たした役割は大きかったと思われる。

(4)石見銀山行動計画の策定

 協働会議の議論を経て、2006年3月に石見銀山行動計画が策定された。官民で議論した保存管理、情報発信、受入、活用の項目に行政が主体となる調査研究を加えた5項目について、想定される課題と解決の方向性を示したもので、石見銀山遺跡に関する事業の指針となったものである。計画に掲げられた、市民が保全等の活動を持続的に行うための財源として基金を設置し運営することと、持続可能に向けた地域教育の推進は、その後の官民協働の軸になっている。

 行動計画では、プランナーがプレーヤーとして持続的に活動を行うことをある程度想定している。その想定には、世界遺産登録後には市民の関心がさらに高まることへの期待も含まれていた。観光等での経済効果が生まれることによって、保全と活用にも市民の力が向けられるという目論見もあった。しかし、市民の関心は世界遺産登録に向けて漠然と期待していた段階が最も高く、行動計画策定時の思惑が外れた部分もある。市民の関心が低下した理由は、「世界遺産=観光振興、地域活性化」という期待が大きかっただけに、保全が優先され、「期待した変化」が生まれる余地が小さかったことへの失望感と推定している。

 行動計画の策定後、協働会議は自然消滅状態になったが、発信分科会から派生した「石見銀山ブランディング委員会」は、分科会と同様の形で2006年も引き続き開催され、石見銀山遺跡が目指すブランドイメージを検討した。

4.NPO法人石見銀山協働会議の設立と運営

(1)石見銀山基金の設置

 石見銀山行動計画において、民間が石見銀山遺跡の保全等に関わるための財源として基金が提案され、2008年に石見銀山募金委員会が設立された。委員会では、5カ年の計画で募金を募り、3億円の基金を立ち上げることを目標とした。1年間に民間から募金があった額と同額を、島根県と大田市が拠出し、3億円のうち民間と行政が1.5億円ずつを負担する仕組みである。

 民間からの募金としては、募金箱等に投じられる募金のほか、特定の電子マネーの利用額や商品売上の一部を遺跡保全への協賛としてまとまった額を寄付した企業があったことで、目標の3億円は4年足らずで達成し、2017年時点の総額は4億円近くに達している。

(2)NPO法人の設立

 基金への募金が集まり、民間団体への助成金制度の運用を検討する段階において、行政はここに官民協働の仕組みを取り入れることを提案した。既存の民間団体に助成金制度の運用を委任することも考えられたが、団体の本来の業務に支障がでることが懸念され、引受ける団体はなかった。

 一方、行動計画策定の段階では、民間が実施する保全等の事業を総括する組織の必要性が提唱されていた。そこで、官民協働の中核となる組織として、協働会議のプランナーからなる法人を設立し、助成金制度の運用をこの法人が行うことが計画された。

 助成金制度を運用する組織が必要という事情があったことから、NPO法人の設立は行政が主導する形で行われた。協働会議の世話人を中心に、理事8名、監事2名を選出し、NPO法人石見銀山協働会議が設立された。現在、NPOは大田市役所石見銀山課内に事務局を置き、専任の事務局員1名が従事している。事務局経費および基金事業の選定等にかかる経費は、石見銀山基金をもとに大田市が負担金を支出するしくみである。

(3)助成金制度のしくみ

 石見銀山基金に基づく助成金制度は、「石見銀山基金事業助成金」の名称である。基金は大田市の基金として管理している。形式上は市の基金であるが、他の一般的な行政基金と異なり、官民協働で設立した基金であることを尊重し、市が単独で基金の使途を決定することはできないこととしている。

 助成対象は、民間が実施する石見銀山の保全や活用に関する事業で、事業の募集、事業申請の受付、選定委員会の開催、審査委員会を通さない特定案件の採否判断、完了報告の受付等の業務をNPOが行っている。遺跡の清掃活動や学校が実施する石見銀山学習など定型の事業はNPOが採否を判断するが、それ以外の事業は選定委員会により採否を決定し、NPOはその判断に関与できない。

 事業実施者への助成金の支払いは、基金管理者の大田市が行う。事業実施者にとっては申請の窓口がNPOと市の2段階になっている分かりにくさがある。官民協働の基金という趣旨からは、基金管理を民間が行い、複雑な受付方法をやめて自由度を高めることが望ましいが、基金の管理をNPOが行うことには、公平性の確保がより厳密に求められることに加えて、基金がNPOの資産として課税対象となることが問題となる。

(4)石見銀山基金事業

 助成対象となる基金事業は、石見銀山行動計画の趣旨にかなうものであれば自由に提案できる「一般事業」(補助限度額300万円、事業費の2/3未満)と、清掃活動等が対象の「保全事業」(補助限度額30万円)、学校が対象の「石見銀山学習事業」(補助限度額30万円)、指定文化財の修復事業が対象の「文化財等修復事業」(補助限度額1000万円、補助割合は事業費による傾斜配分)がある。一般事業には初回申請に限り、補助限度額が30万円と小さい代わりに、自己負担分を求めない「一般事業・初挑戦枠」を設定している。また、大学生ら石見銀山遺跡の現地調査を行う際の宿泊費の一部を補助する「宿泊助成金」がある。

 この助成金を利用した事業としては、大田市内の全小中学校が石見銀山遺跡を訪れて学習する石見銀山学習が定着しており、小学校6年生と中学校1年生を中心に、毎年ほぼ全校が実施している。遺跡地内の草刈りや軽微な補修作業等も、自治会等複数の団体が継続的に実施している。石見銀山にちなんだイベントの実施や情報発信など活用型の事業は、助成を受けられる回数を5回まで(4回目以降は補助率1/2未満)としているため、継続的なものは少ないが、毎年様々なものが実施されている。

 この助成金の大きな目的のひとつが文化財等の修復事業であり、助成金を活用して社寺等の修復が進められている。

5.現状の課題と展望

(1)官民協働の成果

 世界遺産登録前に協働会議の議論によって行動計画を策定したことは、登録後の地域の方向性を定める役割を果たした。市民の間では、「世界遺産=観光地」という感覚が主流で、登録後は観光振興により地域が活性化することへの期待が大きく、遺跡の価値に対する認識や保全への意識はそれほど高くなかったと感じる。協働会議の議論では、保全と活用のバランスを保ちつつ、いかにして持続していくかということが軸となり、完成した行動計画は両方の視点を取り入れたものになっている。議論の途中で参加をやめたり、もとから加わらなかった市民には、大胆な経済振興策が盛り込まれていない行動計画に不満と物足りなさを感じる向きもあったであろう。しかし、行動計画で具体的な方向性が示されたことに加えて、様々な立場の民間と行政が意見交換を行って計画を策定したことは、遺跡保全の必要性を市民が認識する上で重要な過程であったと思われる。結果的に、世界遺産登録翌年の2008年はその10年前の観光客数の数倍にあたる80万人超が石見銀山遺跡を訪れたが、急速な観光地化や観光客の急増による混乱は最小限にとどまった。

(2)助成金制度の成果

 石見銀山基金事業助成金について、大きな成果としては民間の保全活動が持続的に行われていること、文化財指定物件の修復が進みつつあること、小中学生の石見銀山学習が定着したことがあげられる。

 遺跡地内の清掃や草刈りなどの作業は、遺跡地内の住民を中心に市民ボランティアによって支えられている。地味ではあるが欠かすことができない作業である。作業を行う市民への報酬はないが、作業にかかる消耗品等や特別な技術を要する作業等を専門業者に委託する場合は助成対象となり、実施団体の負担は大きく軽減できる。そのことは活動の持続に大きく貢献している。また、NPOが保全活動の実施状況を把握しており、企業等が社会貢献活動で保全活動に新規に取り組む場合にも、計画から作業実施までが潤滑に進むメリットもある。

 文化財指定物件の修復が進みつつあることは、大きな成果である。文化財指定を受けた民間所有の建造物の修理を行う場合、その規模によっては相当額の所有者負担が必要になる。遺跡地内には社寺が多くあり、特に神社は直接的な所有者が不在で、住民が維持管理を担っているものがある。多くが修復が必要な状態で、工事費が億単位となる場合が多い。文化財指定を受けている物件は、指定のレベル(国、県、市)に応じて行政から補助があるが、大型の物件では自己負担分だけでも数千万円の規模になる。数少ない住民がこれを担うことは容易ではなく、自己負担分が確保できなければ行政からの補助も受けられないため、修復が実施できないことが予想されていた。しかし、基金による助成金で自己負担分の半額程度までを支出できる制度としたことで、大規模な社寺の修復が順次進んでいる。

 大田市内の小中学生を対象とした石見銀山学習は、遺跡の価値を学ぶことで保全意識の醸成や地域への関心を高めることが期待され、持続可能な地域づくりに向けた教育に位置づけられるものである。小学校、中学校のそれぞれの過程において、少なくとも1回ずつは遺跡現地を訪れて学習を行うことを目指しており、実現している。助成対象となるのは、学校から遺跡までの移動にかかるバス代、外部講師を招く場合の講師料、体験学習にかかる費用などで、実施する内容は各学校に委ねられ、それぞれ工夫しながら実施している。教員は異動によって市外から着任する場合も多く、石見銀山に関する知識がほとんどない場合もあるため、教員を対象とした研修会も助成金を活用して実施されている。

(3)官民協働の課題

 石見銀山遺跡では、2005年から官民協同による遺跡保全と活用に取り組み、成果をあげてきた。その一方でいくつかの課題もある。

 まず、遺跡の保全・活用に関わる民間の担い手の問題がある。現在、各種事業に定期的に関わる市民の数は、遺跡地内の住民組織やガイドも含めると数百人規模になり、当地の人口が3万人台であることを考えるとかなりの比率になる。民間の参画という点では日本国内でも先進的な事例と言ってよいと思われる。しかし、保全活動の対象となる範囲に比べるとまだ十分とは言えない人数であり、特に、新規に活動に加わる人材が少なく、次世代の担い手育成が課題となっている。地域全体に高齢化と人口減の状況があり、10年、20年後には遺跡どころか、地域自体の担い手が不足することが懸念されている。そのような状況において、遺跡保全に主体的に関わる担い手を育成することは切実な問題である。

 民間の参画を促し、次世代を育成する役割を期待される存在のひとつがNPOであり、官民協働の中核となることが望まれる。しかし、現状は助成金制度の運用が業務の大部分を占め、その他の事業への取り組みが進んでいない。専属の職員は事務局員1名のみで、中心的メンバーである理事、監事らは大半が本業を別に持っているために、NPOの事業に時間を割くことが難しく、人的資源が不足している。理事らが保全・活用の各種事業を企画し、協力者を募ることも考えられるが、財源の頼みの綱となる基金事業助成金は、NPOとその理事は事業申請できないしくみになっているため、アイデアがあっても実行に移すことができない状況もある。財源について独自の収益事業を実施することもひとつの方法だが、ここでも人的資源の問題が立ちはだかっている。

 また、経済規模が小さい大田市地域において、遺跡の保全・活用を将来にわたって持続するためには、石見銀山への観光客を収益につなげることは重要である。しかし、上記のように観光収入につながりにくい産業構造であり、特徴的な土産品などにも乏しい。石見銀山に限らず、大田市では観光を地域経済の活性化につなげることは長年の課題となっている。協働会議の議論では、助成金をもとに商品開発や店舗拡充を行うことで経済活性化につなげる意見もあったものの、これまでのところ助成対象を非営利事業に限定している。現状は、基金事業は事業実施者は無償ボランティアとして活動することが前提となっており、民間が主体的に活動する形に発展しづらいことが問題点である。

(4)展望

 石見銀山における官民協働での遺跡の保全・活用は、保全の面ではかなり成果が上がっていると言える。一方、担い手の不足や中核となるべきNPOの状況、地域の産業振興などの課題を抱えている。

 担い手の課題について、長期的には石見銀山学習を通じて子どもたちが地域を学ぶことにより、将来的に地域の担い手を目指す人材が育つことを期待している。短期的には、市民の関心層を増やす工夫が最重要ではあるが、地域外から保全活動等に参加しやすいしくみ作りも必要と考えている。和歌山県の熊野古道では行われてるが、草刈りや軽微な補修が必要な箇所に関する情報提供と調整、必要な機材等の貸与等をNPOが行うことで、地域外の企業等が社会奉仕などの形で保全活動に参加しやすくなると思われる。その実現には、現状では遠方在住者にとって使いにくい基金事業助成金の運用方法を再検討する必要があるだろう。基金については、他の事業に関しても、より有効に、より使いやすくする工夫が必要と考えている。

 石見銀山遺跡の構成要素は多岐にわたり、それゆえに官民協働というしくみが重要である。また、多岐にわたるゆえに、多角的な視点でその保全・活用に取り組む必要がある。活用の道も多岐にわたり、子どもも大人も石見銀山をキーワードに地域を学ぶことができ、持続的な地域づくりに応用することも期待できる。観光振興においては、構成要素の複雑さがマイナスになっている面もあるが、もとより行楽型の観光には馴染まない遺跡である。他の観光地のスタイルを追従しても成功は望みにくいが、石見銀山ならではの特徴を活かすことで、「教育観光」とでも呼ぶべきスタイルが確立できる可能性があると考えている。

 今後も、石見銀山遺跡の保全・活用には、様々な立場と考えを持つ人が議論する、官民協働の形が求められる。

中村唯史(特定非営利法人石見銀山協働会議)